小村から一大拠点へ!札幌市豊平区にある福住の歴史を紹介!
札幌市豊平区の南東部、清田区との区境近くに「福住」という地域があります。国道36号線や地下鉄東豊線、バスターミナルを利用できるアクセス良好な場所です。札幌ドームや羊ヶ丘展望台まで行く際に利用した経験がある、という人も多いのでは?
この記事では福住の街の歴史を紹介します。6軒だけの小さな村から発展していった流れを辿り、福住という土地に思いを馳せてみてください。
不測の事態から生まれた「六軒村」
福住を含む月寒周辺地区は明治4(1871)年に開拓が始まりました。現在の岩手県から来た人々が入植しており、当時44戸の家が建てられています。当初は全員が月寒中央駅周辺にあたる位置へと入植する予定でしたが、6戸分の土地が不足するトラブルに見舞われました。土地が足りなかった6戸は月寒川の対岸に入植して、建物の数から周辺が「六軒村」と呼ばれるようになりました。
当初の六軒村周辺は獣道しかない原生林でした。しかし、明治6(1873)年に室蘭街道(現在の国道36号線)が開通すると開拓も大きく進んでいきます。開拓が進んだ明治23(1890)年に、六軒村は「月寒村字西通り」として月寒と一体化しました。思わぬ理由で月寒と隔てられた福住の人々は、19年を経て再び合流に成功しました。
豊平町と福住寺
福住を含む月寒村は、明治35(1902)年に豊平村・平岸村と合併して新たに「豊平村」となります。豊平村は明治41(1908)年に豊平町へと昇格しましたが、まだ「福住」という地名は使われていませんでした。
福住という地名は現在も鎮座する「光明山福住寺」に由来する、という説があります。明治26(1893)年に建てられた本願寺札幌別院の出張所が始まりで、月寒村が豊平村になった明治35年に福住寺も創建されています。福住寺は地域の人々から信仰を集めていき、昭和19(1944)年の字名改正で「西通り」に代わって地名となりました。
交通と観光の拠点
戦後に入った昭和36(1961)年、福住を含む豊平町は合併して札幌市の一部になります。その後昭和47(1972)年に札幌市が政令指定都市となり、福住周辺は豊平区福住となりました。
時代が平成に移ると、平成6(1994)年に地下鉄東豊線が福住まで延伸します。同時に福住駅が開業して、同年にはバスターミナルも開業しました。地下鉄とバスによって福住は交通の拠点となり、商業施設の進出とあわせて便利な街になっていきます。
現在の福住駅は札幌ドームや羊ヶ丘展望台の最寄り駅となっており、札幌と新千歳空港を結ぶバスも発着しています。清田区や北広島市の住民にとっても、バスと地下鉄を乗り継ぐ拠点として福住の存在が欠かせません。交通と観光の両輪で、福住は道内・道外を問わず多くの人々が利用する一大拠点として活躍しています。
まとめ
福住の街の歴史について、明治時代から現代まで紹介しました。不測の事態が原因で生まれた福住の街は、多くの人が行き交う一大拠点として発展しています。
六軒村と月寒が一体化した明治23年には福住中央通りが開通しており、現在は通り沿いに「福住開拓記念館」が建てられています。生活・交通・観光と幅広く活躍する福住に興味を抱いた方は、ぜひ一度ゆっくりと回ってみてください。