魅力があふれる北の大地・北海道で活躍したさまざまな偉人を紹介!
日本史において、全国各地で多くの偉人が生まれてきました。主に歴史の長い京都や近代の都となっている東京などに関する偉人が多く想像されますが、北海道にもさまざまな偉人が存在します。江戸時代まで日本史とほぼ隔絶されていた北海道でも、多くの人から注目されて多方面で優れた人物が集まりました。この記事では北海道で活躍した主な偉人を紹介します。
開拓に関する偉人
明治時代から本格的な開発が始まった北海道では、開拓に携わった偉人が幕末・明治時代を中心に多くみられます。陸奥の先に広がる「蝦夷地」から日本に欠かせない「北海道」となるまで、多くの人が努力・尽力してきました。北海道の開拓において活躍した主な偉人を以下で紹介します。
松浦武四郎
松浦武四郎は幕末の探検家で、「北海道」という地名のもとを作った人物です。
1818年に伊勢国須川村(現在の三重県松阪市)で生まれた松浦は、17歳から26歳まで全国各地を巡ったのちに28歳で蝦夷地へと渡ります。各地のアイヌ民族と協力して蝦夷地の調査を行い、同時にアイヌの文化や伝承なども学びました。
明治時代に入ると、「蝦夷地通」として知られていた松浦は蝦夷地の新たな名前を考えるよう政府から依頼されます。依頼に応じて松浦が提出した候補の一つに「北加伊道」があり、この候補をもとに「北海道」という地名がつけられました。「加伊」=「カイ」はアイヌ語で「人間」という意味があります。松浦は北海道内各地の地名もアイヌ語を基準に考案しており、のちに「北海道の名付け親」と呼ばれる功績を残しました。
黒田清隆
黒田清隆は幕末・明治の政治家で、開拓長官や首相などを務めて活躍した人物です。
1840年に鹿児島城下で生まれた黒田は、26歳のときに薩長同盟を成立させるべく活動しました。戊辰戦争では最後まで戦い抜き、函館・五稜郭で勝利した際には敵将の榎本武揚を助命するよう政府に嘆願しています。
明治維新後の1870年に開拓次官となり、陸軍中将や参議を挟んで4年後には開拓長官を務めました。海外からホーレス・ケプロンら技術者を招いたり札幌農学校を設立したりと、北海道開拓の基礎を築きました。
北海道開拓において、黒田は「官園」「官営工場」と呼ばれる国営農場・工場の建設を積極的に推進しています。現在でも敷地や建物が残っており、官園を北海道大学で、官営工場をサッポロファクトリーで確認可能です。
島義勇
島義勇は幕末・明治の政治家で、開拓使として札幌の街づくりに貢献した人物です。
1822年に佐賀城下で生まれた島は、35歳から2年間蝦夷地を探検しました。蝦夷地探検の経歴を買われて、明治時代に入ると開拓使判官として北海道首府の建設を務めます。1869年に現在の札幌まで出向き、本府庁舎の場所や官地・民地の配置などを決めました。島の計画は費用がかかりすぎたため3ヶ月で判官を解任されていますが、後任の判官によって計画が引き継がれています。
現在の札幌中心部はおおむね島の計画に基づいて建設されています。北海道庁・創成川・大通公園など、いずれも島が位置を決めたり基準として定めたりしました。大通の北がビジネス街・南が繁華街という構造も、島による官地・民地の配置がもとになっています。琴似・発寒・豊平など周辺の村も含めた壮大な計画は、現在の札幌市として実現されました。
ホーレス・ケプロン
ホーレス・ケプロンは明治の開拓顧問で、北海道開拓の大きな指針を示した人物です。
1804年アメリカ・マサチューセッツ州に生まれたケプロンは、軍人や大規模酪農家を経て1867年に農務省長官を務めます。1871年に渡米した黒田清隆から要請を受けて、同年「お雇い外国人」として各方面の技術者とともに来日しました。
ケプロンは日本に4年ほど滞在して、その間に3回道内各地を視察・調査しています。札幌農学校・官園・官営工場などの設置を黒田や開拓使に提言して、多方面で北海道開発の基盤を作りました。ケプロンの進言で札幌~室蘭~森~函館の道路整備も行われています。札幌~室蘭と森~函館の道路は、それぞれ国道36号線と国道5号線のもとになっています。
70歳でアメリカに帰国したあとも、ケプロンは黒田ら日本の知人と連絡を取り合っていました。ケプロンが病死する前年の1884年には、日本から勲二等旭日章が授与されています。
ウィリアム・スミス・クラーク
ウィリアム・スミス・クラークは明治の教育者で、北海道や日本の発展に貢献する人材を育成した人物です。
1826年アメリカ・マサチューセッツ州に生まれたクラークは、母校で教師を務めたのち1867年にマサチューセッツ農科大学学長に就任します。1871年に日本へと向かったホーレス・ケプロンからの頼みに応じて、1876年にクラークも来日しました。
来日したクラークは2ヶ月後から札幌農学校の初代教頭を務めて、農学・植物学・土木工学などを学生に教えました。講義はすべて英語で行われましたが、個別指導も行い学生たちから非常に慕われていたようです。
マサチューセッツ農科大学の学長も続けていたクラークは、来日から8ヶ月でアメリカに帰国しました。旧島松駅逓所まで見送りに来た学生たちに言った「Boys, be ambitious」の言葉は、現在でも広く知られています。
依田勉三
依田勉三は明治の実業家で、民間企業として十勝の開拓に貢献した人物です。
1853年に伊豆国大沢村(現在の静岡県松崎町)で生まれた依田は、21歳で慶應義塾に入り北海道開拓に強い興味を抱きます。1881年に北海道へと渡り、当時手つかずの状態であった十勝平野の踏査に乗り出しました。翌年に家族や学友らとともに「晩成社」を設立して、さらに翌年の1883年から本格的に開墾を開始しています。
晩成社は大豆・牛肉・バターなどさまざまな農産物の生産に取り組みました。しかし、過酷な環境や野生動物による被害などの影響でなかなか開墾を進められませんでした。会社を辞めて去っていく者も多く、1925年に依田が病死したのち1932年に晩成社も解散しています。
依田と晩成社の開墾事業が直接的に成功したとは言えませんが、現在十勝の名産物となっている多くの作物は晩成社が手がけたものです。そのため、現在では十勝発展の基礎を依田と晩成社が築いたとされています。
開拓分野以外の偉人
多くの人々が移住・生誕してきた北海道の歴史には、開拓分野以外でもさまざまな偉人がかかわってきました。豊かな自然と大きな可能性を秘めた新天地で、優れた人物が多方面で偉業を成し遂げてきています。北海道に関する偉人のうち、開拓分野以外を中心に活躍した人物を以下で紹介します。
榎本武揚
榎本武揚は幕末・明治の政治家で、蝦夷地での独立を夢見たのちに北海道や日本の発展に貢献した人物です。
1836年に江戸で生まれた榎本は、26歳でオランダに留学して語学・農業・海軍技術など多くの知識を学びました。帰国後32歳で海軍副総裁を務めていた折、倒幕を目指す薩長同盟と幕府との間で戊辰戦争が起こります。江戸城が開城すると抗戦派の幕臣らと一緒に蝦夷地・五稜郭に入り、榎本は「蝦夷共和国」の総裁として選ばれました。
政府軍の攻撃に押されて1869年に榎本らは降伏しましたが、幅広い知識を持っていた榎本は処刑されず政府に登用されます。北海道開拓使を2年間務めたのちに駐露公使や各種の大臣を歴任しました。1891年には「育英學農業科」を創設、自身が学長を務めました。
育英學農業科は1925年に「東京農業大学」と改名しています。その後1989年には、北海道・網走に「オホーツクキャンパス」を開設しました。榎本による北海道への貢献は現在でも続いています。
永倉新八
永倉新八は幕末・明治の剣士で、新撰組の一員として活躍したのち剣術師範を務めた人物です。
1839年、江戸で務める松前藩士の家に生まれます。剣術を究めるべく19歳で脱藩して、当時剣術道場で師範を務めていた近藤勇と出会いました。永倉が25歳のときに近藤や土方歳三・沖田総司らと京都まで向かい、浪士組として活躍した功で幕府から「新撰組」の名を賜りました。永倉は新撰組の二番隊組長として活躍しますが、戊辰戦争の際に近藤と訣別して会津軍に移ります。戦後は松前藩に戻り身を隠したのち、医師の婿養子「杉村義衛」を名乗って小樽に移住しました。
1882年になると、現在の月形町にあった樺戸集治監で看守向けの剣術師範を4年間務めます。その後は東京で剣術道場を開きましたが、1899年に妻子がいる小樽へと戻りました。以降、1915年に亡くなるまで小樽で暮らしています。
永倉は樺戸集治監に赴任する際、旧幕臣で書家の山岡鉄舟に揮毫を依頼していました。山岡が贈った「修武館」という額は現在でも旭川刑務所の演舞場に掲げられています。
有島武郎
有島武郎は明治・大正の作家で、北海道の文学者に大きな影響を与えた人物です。
1878年に東京府小石川区(現在の東京都文京区)で生まれた有島は、18歳で札幌農学校に入学します。農業の道を目指す息子のために、有島の父は北海道狩太村(現在のニセコ町)で広大な土地を開墾し始めました。
1901年に札幌農学校を卒業すると軍隊に入ったのち欧米へ留学、1907年に帰国します。母校で教授を務めるために札幌へと移住して、英語や倫理講話を担当しました。
1910年に雑誌「白樺」の創刊に参加して、有島は文学の世界に足を踏み入れます。1916年に妻と父を亡くして以降は本格的に文学者として活動するようになりました。「カインの末裔」「或る女」「惜みなく愛は奪ふ」など多くの作品を発表しています。
有島が亡くなる前年の1922年、父から引き継いだ狩太村の農場を小作人に無償解放しています。文学界での活躍だけでなく、農業分野においても先進的な発想・行動を見せました。
黒澤酉蔵
黒澤酉蔵は明治・大正・昭和の実業家・教育者で、北海道を日本における酪農の一大拠点にした人物です。
1885年に茨城県世矢村(現在の茨城県常陸太田市)で生まれた黒澤は、14歳で上京して数学院に住み込みつつ独学で勉強しました。1901年に栃木県で足尾鉱毒事件が発生すると、被害者救済のために奔走した田中正造と交流を持ち強い影響を受けます。
1905年に田中からの紹介で北海道へ渡った黒澤は酪農家として働き始めて、1909年に札幌で独立しました。当時問題になっていた土壌の地力低下を解決すべく、黒澤や北海道庁らは同様の問題を研究・解決していたデンマークに注目します。畑作から酪農に転換して成功したデンマークに倣い、黒澤らは酪農を振興すべく1925年に「北海道製酪販売組合」を設立しました。北海道製酪販売組合は現在でも続く「雪印メグミルク」の前身に含まれています。
1933年、黒澤は酪農業に携わる人材を育てるために「酪農義塾」を江別に設立しました。田中正造の思想に倣い「健土健民」を唱えており、酪農義塾を前身に持つ「酪農学園大学」でも受け継がれています。ビジネスと教育の両面で、黒澤は北海道の酪農に大きな足跡を残しました。
竹鶴政孝
竹鶴政孝は大正・昭和の実業家で、ジャパニーズウィスキーの基礎を築いた人物です。
1894年に広島県竹原町(現在の広島県竹原市)で生まれた竹鶴は、大阪工業学校(現在の大阪大学)醸造科から洋酒メーカーの「摂津酒造」に入社しました。1918年に社長の勧めでスコットランドへと留学して、ウィスキー造りの技術を学びました。留学中に同窓生の姉であるリタと出会い、家族の反対を押し切って結婚しています。
1920年に竹鶴が帰国するもウィスキー製造は失敗、摂津酒造を退職します。1923年に寿屋(現在のサントリー)の社長から招かれて入社して、1929年に初の国産ウィスキーを発売しました。1934年に寿屋を退職して、スコットランドと近い風土の余市町に「大日本果汁株式会社」を設立します。1940年には同社初のウィスキー「ニッカウヰスキー」を発売しました。
大日本果汁株式会社はのちに「ニッカウイスキー」と改名して、現在でも優れたウィスキーを多く製造しています。竹鶴が北海道・余市で生み出したニッカのウィスキーは、世界中から愛される逸品となりました。
砂澤ビッキ
砂澤ビッキは昭和の彫刻家で、日本のモダンアートを牽引した人物です。
1931年に旭川市で生まれました。両親がアイヌ民族で、「ビッキ」はカエルを意味する幼少期のあだ名です。幼少期から木彫りの彫刻に親しみ、高校卒業後の1952年に上京して独学で彫刻を学びました。1957年に第7回モダンアート展で初入選すると、翌年には同展で新人賞を受賞しました。
1967年に札幌へ移ったのち、1978年から音威子府村に移住して作品制作を行うようになります。廃校になった小学校をアトリエにして、音威子府の豊かな自然や木材による独自の現代彫刻を多数作り上げました。
1983年にはカナダ・ブリティッシュコロンビア州に行き、作品制作や展覧会の開催などを行っています。1989年に亡くなって以降も、砂澤の作品は世界中から高い評価を受け続けています。
北の湖敏満
北の湖敏満は昭和の力士で、北海道出身の横綱として角界で活躍した人物です。
1953年に壮瞥町で生まれました。本名を「小畑敏満」といい、13歳で三保ヶ関部屋に入門します。17歳で十両、18歳で幕内など非常に早く昇進していき、20歳で大関昇進を果たしています。翌年の1974年には21歳の若さで第55代横綱に推挙されました。
横綱になって以降も北の湖の勢いは収まらず、優勝24回・通算勝利951勝など多くの記録を打ち立てます。1985年に現役引退すると「北の湖部屋」を開設、2002年と2012年には日本相撲協会理事長に就任しています。
北の湖は郷土愛が強い人物でもありました。1977年と2000年に有珠山が噴火した際には、それぞれ地元中学校で相撲イベントを開いたり復興観光キャンペーンに参加したりと、壮瞥町のために貢献しています。2015年に病死するまで、引退後も故郷との交流を続けていました。
まとめ
北海道で活躍したさまざまな偉人を紹介しました。明治以降に本格的な開拓が始まった北海道は、日本史において比較的歴史の浅い地域です。しかし、国内外から強い興味を抱かれた北海道には優れた人材が多数集まりました。
現在でも北海道は農業・観光・スポーツなど幅広い強みを持っています。雄大な北の大地に育まれて、今後もさまざまな分野で多くの偉人が生まれてくるかもしれません。